管理人あいさつ
真の「現場」からの医療改革とは
医療改革という話をする時に、「現場中心」という言葉を良く聞きます。しかし現場とは何か、という議論がなされることは少ないと思います。「医者が唱えているのならば現場に違いない」と、漠然と考えられる方も多いのではないでしょうか。
しかし医師と患者だけをみていたのでは現場は分かりません。外来受診一つとっても、車で来院した患者さんは駐車場を使います。そこには管理人が居ます。受付をします。受付係が居ます。その他にも、患者さんは検査に行きます。栄養指導やリハビリテーションを受ける方もいれば、医療費の相談をされる方もいますし、会計もします。全ての場所には専門家だけでなく清掃・警備・案内などの人員が必要です。配電・水回りなどのライフラインも病院の大事な要素の一つです。そしてその一つ一つの場所に関わる人すべてが「医療従事者」なのです。
さらに、患者さんにとって受診や入院というのは生活の中のほんのわずかな一部分であることを、病院の人間は忘れがちです。家庭や地域社会での日常生活の一つ一つを当たり前に過ごせること、これが医療の目指すゴールだからです。つまり本当に「現場」の医療を改善しようと思うのならば、これら全ての機能に関わる人々、そして何よりも患者さんとご家族が、医療改革の知識と熱意を共有しなくてはならないと思います。そういう意味で、今の医療改革は、関わる人の数と層が圧倒的に不足しているのです。
私とIHIの出会いは、2011年の夏にハーバード公衆衛生大学院でIHIのCEOであるMaureen先生の授業を受けたことです。IHIではトヨタのカイゼンやムダの概念の導入など、様々なビジネスモデルを医療の現場に導入するプロセスを紹介しています。しかし私が一番衝撃を受けたことは、彼らがトヨタのような成功者からのトップ・ダウンの知識を積極的に取り入れるだけでなく、若者のちょっとしたアイデアを10万人の命のキャンペーンに膨らませるなど、ボトム・アップの意見に対しても貪欲であることでした。医療の専門家でなくても、社会的地位がなくても、学界で高名でなくても、医療は現場から変えられる。授業で紹介されたサクセス・ストーリーは私たちにそう教えてくれました。その後私は英国のImperial College Londonに移りましたが、Maureen先生の講義を受けた時の感動は、常に心の中にあります。
「医療改革」や「医療の質の改善」に興味がある人は多いと思います。皆、いつか自分に関わるだろう、と思っているからです。しかし、「私が変えられる」と思う人は少ないと思います。そこには知識の不均等という壁に加えて、良い先駆者がいないことが大きいのでは、というのが私の考えです。活版印刷がルネサンスを促進したように、知識と経験の共有というのは社会の可能性を広げるためには欠かせない手段です。
「現場改善ネットワーク」の活動は、IHIが集めた経験と知識を日本語に翻訳して紹介する、というごく単純なボランティア活動から始めています。テーマは、「可能性を輸入すること」、そして「言葉の壁を取り除くこと」。
私は「最新の医療を提供したければ英語を読め」という常識に疑問を感じています。医療の現場で一番怖いのは、英語の論文をたくさん読める人と読めない人で医療の質に差が出得ること、それを多くの医療従事者が知りながら看過していることです。外国語の習得も医療従事者の責任、と言われるかもしれません。しかし現在の日本の教育では、大学卒業時点の語学力は全く保障されていません。そしてその影響を受けるのは患者さんなのです。
もちろんこれは極端な例ですが、「言葉の壁」が医療改革の可能性をいたずらに狭めている事は否めないと思います。現場の人間はみな激務に揉まれています。その中で本を読むための余分な時間を作るということは、並大抵の努力でできることではありません。同じだけの限られた時間で、日本語と同じ量の英語を読める人はごく稀です。この言葉の壁のおかげで、医療改革に参加できる現場の人間は狭き門を通る事のできた、ほんの一握りの人間になってしまうのです。
しかし当たり前の事実を考えてみましょう。医療改革の知識を一番必要としているのは、もっとも忙しい「真の現場」の人々なのです。同時にそこは、イノベーションに必要な意思・アイデア・実践の宝庫です。前述した広義の「医療従事者」全てが改革に参加できるためには、まずは皆で協力して無駄な障壁を取り払っていくことが大事だと思います。
こうして始めたのが現場改善ネットワークの活動です。私自身の目標は、本会の活動を通じて幅広い職種の人々が効率よく知識と経験を共有できる場を少しでも提供することです。現場改善ネットワークは功利・功名を目指しません。これをきっかけに、より優秀な人材が本会を超える活動を広げて下さることを心より祈っております。
最後に、怠け者の私にきっかけを下さったハーバード公衆衛生大学院の皆さん、IHIのMaureen先生、そしてこの活動を走らせて下さっている一原先生に、厚く御礼を申し上げます。
2012年4月
Imperial College London 公衆衛生大学院 越智 小枝
略歴:
1999年3月 東京医科歯科大学第1内科
2000年6月 国保旭中央病院内科
2002年6月 東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科
2007年4月 東京都立墨東病院リウマチ膠原病科
2011年10月 Imperial College London公衆衛生大学院
学ぶ、つながる、やってみる…僕らの「医療改革」物語
医療がもっと良くなれば、得をする人はたくさんいます。みんながそれを、望んでいます。でも、医療をめぐる問題は複雑です。何が良くなくて、どうすれば解決できるのでしょうか。
このサイトでは、私たちが医療について「学ぶ」上で刺激になる、一つのささやかな情報源として、米国のIHIという団体の教材を日本語に翻訳して提供します。もちろん米国と日本の社会情勢や医療環境には、大きな違いがあります。それでも、これらの教材からは、多くのヒントが得られると思います。一つの教材を読み終わる頃にはきっと、自分の身の回りの環境をどうやったら改善できるか、仲間ともう一度話してみたくなると思います。
私たちはFacebookページも作りました。これは、「医療における現場改善ネットワーク」の活動についてリアルタイムで知ってもらうだけでなく、関連した情報を交換し、共通項のある仲間と「つながって」ゆくのに役立つ場にしていきたいと思っています。
医療について「学ぶ」ことができれば、誰かに対する恨みや、職場についてのとめどない不満の代わりに、自分たちの現場をよくするためのアイディアが浮かんでくるかも知れません。ひたすら万能の神や無私の善人のように振る舞うよりももっと上手に、必要な人の力になれる方法が見えてくるかも知れません。
似た経験や志を持つ仲間と巡り会い、「つながり」を持てば、医療についての経験や知識を共有できるかも知れません。励みにもなるし、新しい挑戦が見えてくるかも知れません。
医療をよくするために、何かを「やってみる」ことができれば、ただの繰り返しだった毎日に、仲間と分かち合える目標ができるかも知れません。小さな成功が、自信を与えてくれるかも知れません。周りの人にも、理解してもらえることが増えるかも知れません。その経験を、他の人と共有すれば、誰かの役にも立つかも知れません。
学ぶ、つながる、やってみる。始めてみませんか。楽しいですよ、きっと。
2012年4月
一原 直昭(いちはら なおあき)